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「のほうが」か「のが」か、はたまた「が」か

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アムロとシャアは互いに過大な期待を抱いてたんだな。
それぞれがお互いを人類の救世主にもなれる存在位に思ったけど
シャアのが先に絶望してしまった。

  こういう文章を見た。これほど知性に欠ける日本語で書かれた文章も珍しい。初めは「の」と「が」の間の「方(ほう)」が抜けている、と思った。しかしむしろ、「の」が、少なくとも機能的には意味をなさない端っこに置かれた歯車のように、無駄に足されているとも思えた。
  なぜ、「の」が無駄に足されているかというと、一行目で既に「アムロとシャア」というように比較対象を提示していて、そして二行目では「それぞれ」を主語として、その目的語に「お互い」というように比較対象を二度提示していて(「それぞれ」は別になくても構わない。「お互いに(中略)と思ったけど」というように言い換えても同じである)、尚且つ三行目では「先に」という相対性を示唆する副詞が用いられていることから、「のが」でも「のほうが」でもなく、「が」のみで十分彼の言いたいことは通じるはずなのだ。

それぞれがお互いを人類の救世主にもなれる存在位に思ったけど
シャア先に絶望してしまった。

というように。

  確かに、比較の場合の「のが」は効率が良い、という面だけでみれば有用だと言える用法ではある。以前にも引用した以下の文章のようなものがそうである。

どうせ負けんのは最初から分かってたし、こっちのがずっと面白れーよ


  しかし初めに引用した文章は、無駄を省くために生まれた「のが」であっても、痴呆の老人のように人物の固有名詞を初めに二つ並べたことを忘れていることからか、中途半端な比較構文を持ち出したり、その比較構文の無くても困らないどころか、あると邪魔なくらいに思える「の」を入れたりすることで省力どころか手間を増やしてしまっているのである。それは詰まることろ、この文章の発話者は「『のが』は省力になる言葉だ」という知識は持っていたのだが、それ自身を省力的に使う知恵が足りなかったのだ。
  これを読んで、「ほう」を省略した「のが」は効率が良い場合もあるがその逆もあるということが分かっていただけたと思う。これは、車に乗っているほうが渋滞につかまり、徒歩のほうが早かったという現象と似ている。他に、エレベーターが各階に止まってしまって、階段で昇ったほうが早かったなど。「のが」は日本語の進化形態といえるかもしれない。しかし、必ずしも車やエレベーターもそうであるように、「のが」は万能ではない。

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