シンクにポタポタと滴る水、
電波状態の悪いラジオからザ―っと流れる砂嵐、
スピーカーから反意図的に出るサーっという静かな振動、
バタンガチャンというドアの閉鎖、
外で風がゴーゴーと唸る、
スプーンが手からこぼれカランと落下する、
そういう音が真に音響であり、
そこには意味も価値も存在しない。
そこに意義づけをしようとするのが、我々音響主義者である。なぜなら、音楽という形が腐敗ないし壊死する繰り返しを目の当たりにして生きているからである。
前述したように、音響はどこにでも在り、それを聴くことも作ることも容易い。音響系音楽は、例えば(ミニマル的)ループ、ディレイ、リバーブ、リバースのエフェクトの何れかを駆使することで成立する。それは、同時に音楽の崩壊をも意味する。
ロラン・バルトが「作者の死」を提唱した。そこに綴られている、ポスト構造主義的方法論を実践することが音響主義者の一つの務めだろう。
既に挙げたエフェクト群を用いることは音楽的技術からすれば、それは拙いと言えるし面白くもないだろう。しかし、そこに生まれる音というのは、作られた音楽以上に音響が氾濫し記号の枠から放たれるのである。それを音響として認める。
The Ephemeral Bluebell/Bibio
これは、まさに「音楽的技術からすれば、それは拙いと言えるし面白くもない」というものである。しかしながら、そこに在る音というのは紛れもなく音響なのである。延々と続く、そう望むような錯覚するような比較的純な音響として。
The Ephemeral Bluebell/Bibio
スポンサードリンク