読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

sibafutukuri

音響系音楽、文学、アニメ、映画などについて書こうかなとおもっています。

「の方が」と「のが」

言語
Google AdSense

 



  ある漫画を読んでひどく憤慨している。

  先日買った『月刊アフタヌーン』に付録として付いてきた、四季賞(2009、秋)の中の作品を一つ暇つぶしに読んでいた。十野七という人の『すみれの唄』という作品で、四季賞のなかの最も大きい賞である四季大賞を受賞していることから、付録冊子の巻頭に掲載されている。
  内容は可もなく不可もなく、なぜ大賞を取ったかは判りかねる程度のものである。今回提起する問題はそこではない。物語のクライマックスの登場人物の一つのセリフにある。

「どうせ負けんのは最初から分かってたし、こっちのがずっと面白れーよ」




  この、「のが」にひどく憤りを覚える!

  以前にも別のところで愚痴をこぼしたことがあるのだけれども、ここでの「のが」というのは、「〜の方が(のほうが)(…)」というべきところを、「〜のが(…)」というように格助詞「の」と「が」の間に挟まる「方」が省略されている。「野球よりサッカーのが好き」、「タバコより酒のが害になる」というように「AよりBの方が」という比較の意味を込めて使われている「のが」である。

  この漫画のセリフでいうなら、「あっち(A)よりもこっち(B)の(方)が面白い」という意味を表している。この「のが」についてはもう少し詳しくは以前の記事*1で書いているので、そちらを参照してほしい。文法的な説明は置いておくとして、この「のが」を目にするとなんだか無性に腹が立ってくるのである。これを「悪」とは言わないし言えないが、明らかに個人の勝手な言語運用においての怠慢の結果だと思える。
  「ら抜き言葉」はもはや世間の少なくとも5割以上に認知され、利用されているので多少は目を瞑るべきではある。けれども、この比較の「のが」というのはずっと以前からあるのかもしれないが、「日本語の乱れ」としてこれが提示されているところを私は見たことがない。「のが」が新しい「乱れ」の発祥だとしたら、嘆かわしいことであるし出来ることならこの水面下でのムーブメントを食い止めたい。

  日々2ちゃんねるを眺めていると、「のが」との遭遇率はもはや「ら抜き言葉」に匹敵するほどかもしれない。この2ちゃんねるという場でのレス(書き込み)というのは、「話し言葉」とも「書き言葉」とも区別しがたい性質を持っている。板(掲示板の種類)によっては掲示板への書き込みというよりも、それはチャットに近いものさえある。そして何より、彼らの九割以上が匿名の存在であるので、そこには言語運用においての責任感の自覚はない。そこに責任を求めていいのかどうかがわからないが。
  私はその2ちゃんでさえ、「のが」を見かけると事毎に気分が悪くなる(そこで直接、突っ込みを入れるといったことはないけれども)。それでも、2ちゃんねるでのレスの言語レベルというのは大概が低いものであるから、その中に「のが」が紛れたとしても「便所の落書き」でしかないことは変わらないのだけれど。しかし、割と真面目な議題を扱っているスレッドでは、言語レベルも通常の文章体と同程度のものもあるのだが、そういったところにも「のが」は紛れていたりする。これは、発話の際でもそうなのだけれど、いくら偉そうで賢そうな内容を話していても、そこに(許容しがたい)「ら抜き言葉」などが発話されると、一気にその内容の価値までもが下がってしまうと思える。
  さすがにこの比較の「のが」を、誰かが発話されたものとして聴いたことはないのだけれど、この現状ではいつ誰が声に出してそれが伝播していっても不思議ではない。

  十野七の『すみれの唄』という漫画について話を戻そう。なぜこの漫画に憤慨したのかというと、物語のクライマックスでセリフとして比較の「のが」を用いたこと、しかもそれが作品として大賞を獲得し、広く若者に影響を与えているであろう月刊アフタヌーンに掲載されたこと、だと言える。
  たった二文字あるいは二音節の言葉で何を騒ぐのと思う方もいるかもしれない。が!2ちゃんねるネットスラングとして普及するのは、百歩譲って許せる!しかし!今回の件に関しては、一つの大きな雑誌に掲載されてしまっているのだよ!作者にしろその担当にしろ馬鹿としか思えない。無知無学の馬鹿。

  もう一度問題のセリフを引用しよう。

「どうせ負けんのは最初から分かってたし、こっちのがずっと面白れーよ」

Google AdSense

 


  ご覧の通り、若者言葉が用いられていて言語レベルの高いものとは言い難い。それは許せる!しかし!なんだこの「のが」は!と思うのである。若者に今使われている言葉、生きている言葉、それを作品内に用いることでリアル(笑)さを加えることは確かにできるだろう。しかし、だからといって言葉を選ばずにそのまま現実世界から引用してきて何の意味がある。
  漫画にしろ文学にしろ、それが与える影響の対象はそれぞれ違えど、必ずその需要が大きければ大きいほど、未知数の影響を及ぼすことになる。それを作者は自覚すべきだろう。

  リアル(笑)な世界を、作品に求めてどうするのだろうか。まぁ、それが流行りというか歴史的に見ても伝統なのかもしれいけれども。例えば、「携帯小説」というやつがそうだろう。あそこで繰り広げられる言語運用はおそらく2ちゃんねる以下だろう。なぜならそれがリアル!であるのだから。
  携帯小説で描かれる物語は大概恋愛ものなのだろうけど、つまりリアル!な恋愛!というやつだろう。そういう下賤なるものがあの中では展開されている。

  リアルさを体験したければセックスをすればいいし、相手がいないならばオナニー権なりを行使しそこにて消化させればいいものだろうに。なぜ、作品として表すのか!君たちが穢れているように、君たちの持つ言語も同様に穢れていて、そして君たちは猿や豚と変わらない無知無学だと何故気づけない。
  例えば今回挙げた十野七という人物は、世に作品を出すとか、発言するとか、そういう資格はとてもじゃないけど無い。そして、にも関わらず掲載に及ばせた担当の編集者は作者よりも遥かに愚ろうである。

  話が飛躍し過ぎたが、「のが」という言葉は日本語内での小さな問題に思えるかもしれないが、もっと根底から繋がる問題でもあり、その中の一つでしかない。我が国の識字率はほぼ100%とされているが、そんなのは嘘っぱちである。私を含めてほとんどの愚衆は日本語など使えやしない。日本語を使う気が無いとも言える。

  今回の文章は我ながらちょっとあまりにもひどいと思えるけれども、それだけこの漫画の作者に、その編集担当者に、日本国民に、自身に、人間自身に、腹が立って興奮してしまったということだろう。

■関連記事
sibafu.hatenablog.com
sibafu.hatenablog.com

*1:2009-06-29「尚古すべきかせざるべきか」
http://22.xmbs.jp/gokyo-11472-d_res.php?n=271797&view=1&page=d3&guid=on

スポンサーリンク